彼女とかいなくても「幸せ太り」するよね、という話

最近太った。

なぜだろう、と考えたが、食べ過ぎてしまうのは自分の心が生み出した結果だ。なので結局原因は心の持ち方なのだろうと思った。

最近楽しいことがたくさんあった。自分の体重など気にしないぐらいに。自分がどんな見た目であろうと世界に認められているような気がしてしまったのか。

 

そう考えると、いわゆる「幸せ太り」というのは結婚による食生活の変化などが原因とされているが、別に原因があるのではないか、と感じた。

 

まず、痩せよう、と思う理由について考えてみたい。もちろん人によって異なるとは思うが、僕の場合は自己肯定感を高めるためだ。

モテたいと思うする人についても、要するに自分の価値を高めたい、という気持ちがあって痩せようと思うのだと思う。

 

そう考えると、元々自分に価値があると思う人には、痩せようという気持ちは生まれないのではないか。

特に恋人がいる人は、自分の現状を認めてくれる人がいることになる。そこから無理に変わろうとする人はあまりいないだろう。(ここで、そもそも太らない体質の人にはここで書いていることが全く当てはまらないんだろうなあ、と思った、もちろん運動が好き、みたいな人にも当てはまらないし)

結局、恋人がいるにしろ、人生が充実してるにせよ、世の中に受け入れられていると感じれば、わざわざ食生活を変えたり、普段運動しない人が運動してまで、痩せようと思わないんじゃないか。

 

あとはまあ幸せな気持ちがあれば食べる罪悪感とかも打ち消されるんだろうなあ。ここ最近はイベントが充実していて何も考えずに食べていた感があった。

 

というわけでこないだ体重計に久々に乗ったら太っていた。あと5月病ということもあり、心の健康のために痩せようと思った。痩せたら自己肯定できる気がする。

多分これが行き過ぎると摂食障害に至るのだろうか。過食症は何の解決にもならないだろうが、ちょっとした拒食症(まあダイエットか)は心の健康に良さそう。でも痩せても痩せても満足できないのが拒食症か。

 

ちなみに心の健康のために4kgぐらい痩せて満足してしまい太った(これも一種の幸せ太りかも)、というのが去年の話で、要するにリバウンドってそういう部分もあるんだろう。

 

ダイエットには心の飢えというのが少し必要なのかもしれない。ネガティブ思考な人の方がポジティブな人よりも冷静な判断ができるという話がある。これも、幸せじゃない方が冷静な判断ができ、結果痩せるということに繋がりそう。

 

そんなこんなでダイエットもどきを始めた。ちょっと痩せて満足しないようにしたい。まあ、こんなこと考えずに運動するのが一番だと思うんですけど。

 

フィロソフィーのダンスの出囃子の英語が何を言っているのか考えようの会

タイトルの通り。急に気になったので今日何回も聞いていた。出囃子という表現が正しいのか分からないけどFUNKY BUT CHICのことです。歌詞カードみたいなものがこの世に存在するなら答え合わせしたい。以下それっぽく聞き取ったやつ。

 

World’s conquerors(?), we all need a little philosophy for(of?) dance tonight,

please give it up for these girls, and get up on cray(?)

 

here, three times, two times

 

brothers and sisters, you all put your hands together for the hottest show in town

make some noise〜

 

①World’s conquerors(?), we all need a little philosophy for(of?) dance tonight,

まず、conquerorsに聞こえる部分がよく聞き取れない。world’s conquerorsとすると「世界征服者たち」という意味になるが、いきなりそんなことを言っているのだろうか。英語特有の客ageの手段かもしれない。

適当に訳すと、「世界征服者たちよ、今夜我々は皆踊りの哲学を少し必要としている」となる。壮大。

 

②please give it up for these girls, and get up on cray(?)

give it up for〜 はDJや歌手がよく使う、「拍手を送る」のスラングらしい。そういえばなんか聞いたことある気がする。

get up on crayと聞き取った部分が全く聞き取れなかった。このままだと文法的おかしいはず。ただcrayというのはcrazyのスラングらしいのでここは合ってそう。要するにここは盛り上がれ的な意味だと思う。「get up for cray」で「馬鹿騒ぎのために起き上がってくれ」みたいな意味かもなあ。

なんとなくで訳すと、「彼女らに拍手を送り、馬鹿みたいに盛り上がってくれ」みたいな感じかなあ。

 

③here, three times, two times

ドゥン!の音の場所を言ってくれてる。あと初めてライブ行った時ここで手を叩くのかと思ってた。

 

④brothers and sisters, you all put your hands together for the hottest show in town

put hands together for 〜で 「〜に拍手を送る」らしい。手拍子のことでもいいかもしれない。

他はそのままなので適当に訳すと「兄弟、全員町で一番熱いショーのために手拍子してくれ!」となる。どうでもいいけど、townっていう単語、暖かみがあって好き。

 

⑤make some noise 

DJで言うところの「サ・ワ・ゲー!」というやつ。好きです。

 

空耳アワー」とかあるぐらいだから、英語の歌詞(歌詞ではないけど)を聞き取るのって難しい。というか日本語の歌詞でも聞き取れないことが多い。

 

関係ないが、日本人が英語下手なのは完璧に使おうとしてるから、という話をよく聞く。

文法とかめちゃくちゃでもいいから話した方がいいよなあ、これも完璧に聞き取れてるわけではないけど意味わかるし、などと思ったのだった。

 

 

GW(平成最後の日編)

最近、自分有能だな、と思ったことがありまして、初めてフィロソフィーのダンスのライブを見たときのブログを書いてたんですよね。この間読んだらその時のことを思い出しました。いや有能。

ただ、その後普通にブログに飽きてしまって重要なライブの感想を書いてないんですよね(仕事で時間が取れないというのもありますが)。

 

というわけで、主に未来の自分が読んで楽しむ用に今年のGWのライブ(フィロソフィーのダンスのライブにしか行ってないですが)について残しておこうと思います。

 

4月30日、平成最後の日、DJダイノジ主催の「平成」というイベントに行きました。

まず見たのが「二人目のジャイアン」。めちゃめちゃよかったです。

単純なので楽器が多いと楽しいと感じてしまいます。コンガとか好き。あとMCもよかった。バンドのMCって重要だなって思います。

上手側の2列目ぐらいにいたので、トロンボーンの音がベルの先から直に飛んできました。心地がよかったです。欲を言えばトランペットがいて欲しかった(オタクが欲を言うな)。

印象に残ってる曲は「愛でもくらえ」です。音源だとラッパいるんですよね。うれしい。

 

次にフィロのス。安定してます。もう本当に楽しい。2列目にいて、周りのオタクが見た目強そうだし酔っ払ってるしで少し心配だったのですが、全て推しのコールにエネルギーを使っていたので笑っちゃいました。いいオタクたちでした。楽しいライブって本当に記憶がないんですよね。ただ久々に近くでライブを見ることができたのが嬉しかったのを覚えています。あとメンバーのテンションも高かった。というかGW中全体的に高かった気がします。テンション。

最後にヒューリスティック・シティで締めていたので本当に行ってよかった。良い平成の終わり。

 

そこで終わりではなくDJダイノジがあったんですけどね。演者も客もみんなテンションがすごかった。平成の終わりというのをお祭り気分で楽しんでいました。

印象に残っている曲はやはり奥津さんがノリノリで踊っていた「LOVEマシーン」、メンバーが全員乱入し、二人目のジャイアンのホーン2人がアドリブを披露した「ライブ・ライフ」、推しを目の前にしての「創聖のアクエリオン」など。この辺りは圧縮がえぐかったのですが、それも気にならないぐらいに楽しかったです。あと「ミュージック・アワー」や「Runaway Baby」だったりが流れたのも嬉しかった。

 

この日、着ている服装にも問題があったのですが、今までライブに行った中で一番汗をかきました。会場に湿度もあり、前髪は完全に崩れました。シャワー浴びた後みたいになりました。

 

この姿でアイドルに会うのは気が引けたのですが、平成最後の日。やはり記念を残しておきたいものです。

握手と囲みに行った時、ひたすら前髪をいじられたことを覚えています。嫌いに人にいじられるのは嫌いですが、好きな人にいじられるのは好きです(それはそう)。ただ、平成最後なのに前髪の話をして終わってしまいました。

ただその方が「区切り」のようなものがなくて良いのかもしれません。実際、時代が変わったところで生活も変わらないですし、フィロのスを好きな気持ちも変わらないですし、「区切り」を作る必要もなかったような気がします。

 

ただ推しにだけは「令和もよろしくね〜」と言われた気がします。そんな会話、思えば他の誰ともしてないんですよね。

思えば昨日友人に令和に会って初めて会ったけど令和の「れ」の字も出てきませんでした。

元号に思い入れができたのは「ヒューリスティック・シティ」の影響が大きいのでしょうか。

 

陰キャオタクがこういったイベント?(改元はイベントではないですが)に思い入れができることは今まででは考えられなかったことです。そういう人を斜に構えて見ていた側の人間でした。

こういうことを純粋に楽しんでいるのはいい傾向です。

 

アイドルオタク、もしかして心の健康に良いのでは??

アイドルオタクと心の健康について書きたくなったのでそのうち書きます。

 

こういうイベントがあったこともあり、平成最後に話した人物は推しメンでした。自分の平成を象徴していて良いと思います。本当は良くないんでしょうけど。

 

楽しいイベントだったので、割と長く書いてしまいました。忘れてしまう前に他のライブについても書かなければ。

 

 

GW(実家編)

去年のGW何してた?と聞かれたら果たして答えられるでしょうか。僕は答えられないと思います。

ビバラに行った、毎年恒例なので実家に行った、というのは覚えていますが、具体的には何も覚えていません。

 

こうして文章に残すことは大事です。後で見返したときに楽しいので。

 

まず初日、家にNintendo Switchが届きました。

GWを少しでも充実させようという気持ちです。午前中にスマブラを買いに行きました。

 

夜は大学時代のサークルの集まりがありました。1個上の先輩も殆どが大学院を卒業し就職していました。

 

話した内容についても、割と下世話な内容だったり、彼女の話だったり、結婚の話だったりと、知り合ってから5年が経ち、皆大人になったなあ、と感じたのでした。一生アイドルだったり趣味の話をしてる自分とは違うなあ。

 

日曜日、実家に帰りました。

実家に帰ったところですることもないのですが。録画されているものを見たり、犬と戯れたり、安定です。Switchを持って行ったら喜ばれました。ちょっとした家族孝行みたいな感じですかね。犬がかわいいから実家に帰ってるみたいな部分はあります。

結局実家には火曜日の午前中までいました。

親になんで帰るの?オタ活?と聞かれましたが実際その通りです。親の理解があるのはありがたいですが、もうちょっとマシな大人になって安心させたいという気持ちもあります。

 

でも子どもが大人になったら親は安心するのでしょうか。親離れすればするほど親って嬉しいものなんですかね。寂しさもある気がしますがどうなんでしょう。急に働きだして、自立して、親側の気持ちはあまり考えたことはありません。

実際に親になってみないと分からない気がします。

 

このままライブ編を書きます。

 

好きなものを勧める難しさ

先日、推し(十束おとはさん)に「オススメの本ない?」とふいに聞かれました。また続いて、「哲学書でもいいよ」と。

本人は何気なく聞いたのだと思いますが、オタクからしたら難しい問題です。

そもそも自分は心理学の人間なのですが、心理学と哲学は親戚みたいなものなので、まあそこは大きな問題ではありません。

 

家に帰り、自分が最近読んだ本について、哲学、心理学の本について考えてみました。

家にあるベストセラーになっているいわゆる“名著”というものを読み返してみました。

なるほど、確かに本で言っていることは面白いしタメになる気がします。しかし、自分が好きか、と言われたらどうでしょう。別に大好きなわけではありません。ただ、人に勧めるものとしては「正解」な気もしました。

 

 

僕は昔から人にモノを勧めるのが苦手です。

自分が良いと思うものよりも、世間一般としての「正解」を探してしまいます。仲が良くない人に対しては特にそうです。

例えば、オススメの音楽を聞かれた時、「正解」は邦ロックを勧めることのように感じます。「音楽好き」の人に邦ロックを勧められた経験が多いのでそう思ってしまうのかもしれません。

ヒップホップだったり、アイドルを勧めるのは「不正解」な気がしてしまい、僕はそれらが良いと思っても挙げることができないことが多いです。

少しマジョリティーから外れた答えを言った方が話が盛り上がるような気もするのですが、なぜ正直に答えられないのでしょうか。

 

それは自分に自信がないから、という答えに帰結するような気がします。

まず、自分が好きなものを勧めたことによって相手に時間を取らせてしまう。相手が気に入らなかった場合は地獄です。申し訳ない気持ちになります。ただ自分のことすら分かっていないのに相手の好みなんて分かるのでしょうか。

こういった懸念をしてしまうのは自分のセンスに自信がないからです。

 

あと何より、自分の好きなものが否定されるのがこわい。

普通の人、しっかりと「自分」を持っている人というのは、自分の好きなものを否定されても特に何も思わないかもしれません。

僕の場合はどうでしょう。好きなものを否定されたら、自分を否定された気になってしまうかもしれません(多分言い過ぎですが)。

それは、自分の内面に自信がないため、自分の内面の価値を蔑ろにし、自分の好きなものなど、自分の外側にあるもの(趣味など)を自分の価値の一部として過大評価しているからのような気がします。

つまり、「〇〇が好きな自分」というのを自分のアイデンティティにしてしまっているのです。

 

この傾向がひどくなると、人への差し入れも、プレゼントも延々と悩んでしまい、一向に決めることができなくなります。そして結局超無難なものを選んでやり過ごすことになります。

まあ、この傾向は大学生の頃に特にひどかったのですが、最近は良くなってきました。

差し入れも自分が好きなものを持っていけばいいんだ、と気軽に思えるようになってきました。

 

 

なので結局、オススメの本は普通に自分が好きな本を渡すことにしました。

去年発売された「ナナメの夕暮れ」というオードリー若林さんのエッセイです。

今日ここに書いたことのように、ひたすら内面との向き合い方を考える本です。要するに心理学の本と言ってもいいと思います。科学に基づいているわけではないので哲学とも言えるかもしれません。

というか個人的には普通にめっちゃ良い本だと思います。超読みやすいですし。僕がラジオオタクで若林さんのファンだからというのもあるかもしれませんが。色んな人に読んでほしい。今日一緒にライブに行った友人にも思わず勧めてしまいました。

 

ぶっちゃけ推しの好みなんて全く分かりません。先ほども書きましたが、自分のことすらよく分かっていないのだから、他人のことを理解することなど不可能です。

それならせめて、自分が好きだと思えるものを勧めた方が良い、という結論に至りました。

結果的に、ひたすらに読みやすい心理学(哲学)の本を勧めることができたという意味では「正解」だったのかもしれません。

 

この文章を書いていて感じたのは、自分の好きなものを好きと貫くのは難しいなあ〜〜ということです。ただ、普通に生きてる人はこんなこと考えずに生きてるような気がします。考えすぎ。

 

自分に自信さえ持てればいいんですけどね。それこそ「自分探し」でもすればいいのでしょうか。

でも当分は無理そうなので、自分の好きなアイドルを好きでいることで自分の価値を見出していこうと思います。

 

あとこうやって、うんうん悩んでる自分が好きなのかもしれません。なのでこのまま変わらない方がいいのかも。ドMなのか。

 

でもやっぱ布教はできるようになってみたいなあ。

 

パレーシアと自己開示

パレーシアとは「包み隠さず話す」の意味を持つ哲学用語らしい。女子が男友達の恋の悩みを聞いてあげるというテーマの曲名になっている。

 

オタクなので恋の悩みとかに関してはまあ分からないとして、

包み隠さず話す、というのは心理学用語で言えば、「自己開示」という言葉になるだろう。

自己開示とは自分のプライベートな情報をありのまま伝えることである。自己開示は人とのコミュニーケーションに必須であり、特に自己開示ができる人ほど他人と仲良くなりやすいと言われている。

というのも、人というのは自己開示された相手に対して、自分も自己開示しなければ、という気持ちが生まれるからだ(返報性の原理)。そうしてお互い深い話をすることになるので、親しくなりやすい。例えば、悩み相談をした際に、相手からも自分も〜、と悩みを打ち明けられることで話が深くなりお互いのことをよく知れるというのはある。

自己開示の有無というのは友人関係を測る1つの指標になると言える。

 

ところで、大学時代に友人関係についての研究をしようとしたことがあった。ただ大きな問題が一つあった。

「友人である」、「仲の良さ」というのはどうやって測ったら良いのだろう。そもそも人はどういう基準でその人は「友人」だったり「親友」であると考えるのだろうか。

 

一つの指標として、自己開示ができるか否か、ということで判断しようかと思った。しかし、仲の良い人ほど話したくないという話題もあったりするし、今後友人関係にならなさそうなので逆に話せることもある(陰キャオタクだからというのもあるかもしれないが)。

それなら会う回数や連絡を取る頻度などで判断できないだろうか。これも「そんなの相手の性格によるでしょ」という結論が出てしまい、仲の良さとは関係がないような気がしてしまった。

結局考えれば考えるほど、仲の良さとは何なのか分からなくなってしまい、友人というものを扱うのは諦めてしまった。それから何年も経つが、どうしたらよかったのかは未だにわからない。

 

そんなことより、人と全然仲良くなれない自分が友人関係について研究しようとしてたのが面白い。逆に友人関係について深く考えてすぎてしまう人間なので人と仲良くなれないのかもしれない。

別れとヒューリスティック

今日は平成最後の日。

テレビをつけると平成最後の日に結婚、出産を控える人や今日を最後にお店を締める人の特集が組まれています。

昨日は平成の紅白を振り返る特番が流れていました。まるで大晦日のような、お祭りのような、妙な盛り上がり方です。

この盛り上がりは天皇陛下生前退位をされるからできることであって、昭和の終わりはかなりの自粛ムードであったと聞きます。

 

1年以上放置していたブログを更新しています。今日書き残しておきたいことがあったからです。

 

昨年、フィロソフィーのダンスの「ヒューリスティック・シティ」という曲が発表されました。

 

https://youtu.be/oJXujY-RVD4

 

この曲の歌詞には「平成に別れを告げる」というテーマがあります。この曲のサビについて思ったことを今日のうちに書きます。

 

まずは「ヒューリスティック」について簡単な説明を書きます。

ヒューリスティックとは、認知資源を節約して少ない時間で判断をする方法、簡単に言えば「経験則」、悪く言えば「偏見」みたいなものです。経験則なので、当たることが多いけど、論理的な思考を放棄しているから判断を間違えることもあるよ、みたいな話です。

 

 

さよならを
好きだって言えるうちに
次の時代いきましょう
わたしが覚えておくから、今を
さよならも
悪くない恋がある
なんてね、いいわけかも
当然のアブダクション
経験が恋を呼ぶ

 

 

以上がこの曲のサビです。

「感情ヒューリスティック」という用語があります。これも簡単に説明すると、好きな人と嫌いな人が同じ失敗をしたときに、好きな人を大目に見てしまう、といった感じです。

極端な例ですが、オタクは推しが何をしても好き!失敗しても尊い!と思ってしまうのはこれに近い現象でしょう。

要するに、自分の好き嫌いによって物や人に対する印象というのは変わってしまうということになります。

 

これは時代に対する別れに対しても一緒かもしれません。

今日で平成という時代とお別れをします。

別れというのは悲しいものですが、初めに書いたように、平成とのお別れというのは、生前退位ということもあり、お祭りのような、明るいお別れであることが感じられます。

悲しくないうちに、つまり、時代が好きなうちにお別れをすることは、そうでない時と比べ、後でその時代を振り返った時の印象が良くなるのかもしれません(実際にどのような時代だったかに関わらず)。

これが一種の感情ヒューリスティックなのだと感じました。

 

 

また近いものとして、心理現象には「親近効果」というものがあります。これは物事の最後に起こったことが印象に残りやすい、というものです。例えば、英単語を単語帳で覚える時に中盤にあるものよりもなぜか最後の方にある難しい単語の方が覚えていたりするのはそういうことです。

終わりよければすべてよし、などと言いますが、実際その通りで、最後に何があったか、によって印象は大きく変わるものだと思います。

ここでも言いたいことは同じで、「好きなお別れ」をすることで平成という時代に対する印象が変わってくるような気がします。

 

ちなみに恋愛についても同じこと(別れ方=恋愛の最後、によってその恋愛に対する印象、なんなら“恋愛”そのものに対する印象が変わってくること)が言えるのかもしれません。

それがサビの後半部分で言ってることなのかなあ、と思ったりします。まあ、オタクなので分からないんですけどね。

 

ちなみにこの文章も論理的な実証に基づいているわけではなく、経験則に妄想を含めて書いているのでかなり「ヒューリスティック」であると言えます。

本当はサビ以外の部分も書きたかったですし、実際に「ヒューリスティック」についてより扱ってるのはAメロBメロのような気もするのですが、長くなるのでそのうち書きます。多分。

 

 

何にせよ、「時代」に対して悲しくないお別れができるのは嬉しいことです。

 

ちなみに僕の平成最後の日ですが、大好きなフィロソフィーのダンスのライブが最高だったので、平成は良い時代でした。

これが親近効果であり、感情ヒューリスティックです。